大坂夏の陣

【再出撃】1615年4月1日、家康は家臣へ諸大名に対して大坂方の動向を監視させるように命じている。監視と言っても大坂城から逃げ出した者を捕縛するように言っているので、実質的には宣戦布告と変わりなかった。同月4日、家康は駿府を発つ。表向きは名古屋にいる息子・徳川義直の結婚式のためであった。
 しかし実際は大坂を攻めるための口実でしかなかった。名古屋で婚姻を見届けた家康はそのまま京へ向かい、18日には二条城に着いた。4月24日、家康は豊臣家の使者を呼び出し、前回と同じ提案(浪人の解雇・秀頼の国替え)をする。家康は豊臣家の意見が変わらないのは分かっていたが、形式としての交渉決裂をしておきたかったので伝えたまでであった。

名古屋城
名古屋城

【戦乱再び】徳川軍が京に集結した翌日の1615年4月26日、豊臣軍の大野治房が大坂城を出撃し大和郡山城を占領した。ここに夏の陣の火蓋が切られた。大野軍はさらに奈良を攻めようとしたが、徳川本隊が攻めてくることを知り諦めて撤退している。4月28日、豊臣軍は今度は日本一の商業都市である堺を焼き討ちした。豊臣家との縁が深かったにも関わらず、徳川家と懇意にしていたのを裏切り行為と取ったためである。
 翌日には、浅野長晟の領土、紀伊を攻める。こちらも堺と同じくさほどの戦略的価値はなく、豊臣家との縁の深さを無視して徳川家についた背信行為に怒りを覚えた豊臣家上層部の感情にまかせての攻撃であった。しかしこちらは豊臣軍の先鋒の暴走のせいで敗北してしまう(樫井の戦い)。
 1615年5月5日、いよいよ家康が動き出す。二条城を出て河内の星田に本陣を置いた。この出撃の時、家康は食料担当の者に「今回は短期戦だから、三日分の腰弁当でよい」と指示した。3日で豊臣家を滅ぼす自信の現れであった。

樫井の戦いの碑
樫井の戦いの碑

【又兵衛・重成、相次いで倒れる】徳川軍は軍を二つに分け、本隊は河内路へ、別働隊は大和路を経由して大坂城の南で落ち合うようにした。前哨戦からも分かるように、堀のない大坂城に籠る豊臣軍は敵を途中で向かえ討つ他なかった。そのため、敵に合わせて豊臣軍も兵力を二分し、敵が合流する前に戦力を削ぎ、あわよくば家康の首を上げようという作戦を考えた。
 1615年5月、後藤基次・毛利勝永・真田幸村らは大和路の別働隊を討つ為に、長宗我部盛親・木村重成らは河内路の本隊を討つために出撃する。5月6日、まずは大和路の道明寺で戦いがはじまる。霧のために到着の遅れてしまった他の隊を残して、後藤基次隊が単独で敵の大軍相手に戦闘を開始してしまったのだ。そのために又兵衛は戦死し、後藤隊は壊滅する。その後、遅れて着いた毛利勝永・真田幸村らの隊は、敵を相手に善戦するが、河内路方面の戦いが敗北に終わったことを知ると、大坂へ撤退した(道明寺の戦い)。
 一方、河内路でも激しい戦闘が行われていた。木村重成隊は若江で(若江の戦い)、長宗我部盛親隊は八尾でそれぞれ戦うが(八尾の戦い)、戦力差は如何ともしがたく、木村重成は戦死、長宗我部盛親隊も撤退を余儀なくされた。

道明寺の戦いの碑
道明寺の戦いの碑

【狙うは家康の首ただ一つ】翌日7日、大坂城の南部に徳川軍が終結した。豊臣軍はこれに真っ向から対峙する形で布陣した。ここを抜かれれば大坂城を落とされるため、豊臣軍は何としても勝たなければならなかった。だが、15万対5万と圧倒的に不利なため、まともにやっては勝つ見込みは万に一つもない。そこで真田幸村はすべての軍の力を結集して家康の首を上げる、という作戦を提案する。ここに来てやっと豊臣家上層部は幸村の案を受け入れ、その方針で行くことにした。
 作戦の詳しい内容とは、真田幸村・毛利勝永・大野治長・大野治房が秀頼の出馬と共に、徳川軍に真っ向から攻撃し、敵がそちらに気を取られている間に、明石全登が敵を迂回して本隊の背後から奇襲し、家康の首を取るというものだ。だが大事な秀頼の出馬が淀殿の反対にあい、取り止めとなってしまい、また徳川軍の進撃が予想より早かったため、作戦を変更せざるを得なくなってしまった。

茶臼山
幸村の本陣・茶臼山

【最後の意地】「だからと言ってすべてが終わった訳ではない。すべての気力を振り絞って突撃すれば、もしかしたら、、、」。豊臣軍の武将達は奇跡に近い可能性にかけて攻撃を開始した。すでに死を覚悟していた豊臣軍の猛攻はすさまじく、毛利勝永・真田幸村隊らは何重にもなっている敵陣を突破し、家康の本隊へ突撃。大野治房隊らも、同じく敵陣を突破し秀忠の本隊へ突撃した。特に真田幸村隊の攻撃が一番すさまじく、一時は家康が死を覚悟したほどであった(天王寺・岡山での最終決戦)。しかし豊臣軍の勢いもそこまでであった。後詰がないため、敵が態勢を立て直すと、力尽き次々と討たれたり撤退していった。

大阪城
夕方の大阪城

【落城】夜になると、徳川軍は大坂城へと迫り、本丸を完全に包囲する。ここに来て豊臣家上層部は「国替えでも何でも言うことを聞くから、秀頼と淀殿の命を助けてくれ」と頼む。しかし元々秀頼を亡き者にするために始めた戦い。この後に及んでそのような条件を飲むはずもなく、家臣に「絶望させ自決するように仕向けよ」と命ずる。秀頼一行は山里曲輪に逃げ込み家康の答えを待っていたが、いつまで待っても答えは返ってこない。5月8日朝、徳川軍に回りを囲まれ、鉄砲を打ち込まれると、もはや希望はないと悟り、一行は次々と自害する。その後、前日からついていた火が城中を回り、大坂城と豊臣家は炎の中に消えていった。
 ここに応仁の乱から続いた戦国時代が完全に終わることとなった。

UPDATE 2000年3月12日
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