渡辺守

(わたなべまもる)

生没年:1610〜?年/ 身分:子供/ 官位(通称、号):なし

【死を免れる】渡辺糺の長男。大坂落城の際に糺は次男と三男を刺し殺し、守も乳母に連れてこさせ殺そうとしたが、彼女が「白小袖を着せて連れてきます」と言ってその場を逃れて渋紙( 紙をはり合わせ、柿渋を塗ってかわかしたもの。防寒・雨よけの衣類とし、敷物、荷物の包装などに用いていた)に守を包んで綱を下げて逃げ出した。

渡辺一族の墓
京都市右京区嵯峨の清涼寺にある渡辺一族の墓

【賢い子】そして町屋の便所に隠してほとぼりが冷めるのを待っていたが、徳川軍に二人とも捕えられた。その後、乳母は色々と拷問を受けたが、渡辺家の家臣・水谷清兵衛の妻と子だと言い張り、守も糺の子だということを何を聞かれても白状しなかった。
 そこで遂に徳川軍の兵は諦め「金二両を出すなら軽い身分の者ということで許そう」と言い、守を人質に取り乳母だけを解放した。そして彼女は渡辺の旧領に行き、百姓達にお願いすると、渡辺家に世話になったからということで金を融通してくれて、そのお金で守を引き取っている。

【徳川家の家臣に】その後、母は京都の南禅寺に預け僧にさせた。だが18歳の時に細川忠興や一柳末栄の働きで還俗させられ、渡辺権兵衛守と名乗り徳川綱重に仕えて500石を与えられた。その後、渡辺家は長く徳川家に仕えたという。

参考文献大日本史料(第十二編15〜20)大坂の役

UPDATE 2002年10月14日
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