佐藤方政
(さとうかたまさ)
生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):才治朗

岐阜城から見た岐阜城下
美濃鉈尾山(なたおやま)城主・佐藤秀方の息子。父・秀方は賤ケ岳の戦いで豊臣家に仕えたという。方政は父の代理として九州征伐・小田原征伐に従軍し、1593年に家督を継いだ。関ヶ原の戦いでは美濃の盟主というべき織田秀信が西軍についたためそれに従ったが、岐阜城下での前哨戦で東軍との戦いに敗れて逃亡している。
大坂の陣が起こると大坂に入城し豊臣軍の一員として戦った。1615年の天王寺・岡山での最終決戦で討死する。
管理人・・・方政が大坂城に篭ったと言う話しが『清泰寺過去帳(の中の佐藤金森由来書)』に記録されていますが、これは同じく大坂城に篭った佐藤主計春信と混同したお話しで実際は篭っていないという説もあります。というかその記録以外に彼の名前がないので間違いかも、、、。
その記録には彼の長男は大坂の陣後浪人し『上洛の年(徳川秀忠が上洛した時のことだとは思うけど具体的な年は不明)』に板倉勝重に許されて西国の大名に付けられたけど程なく病死したとあり、次男は尾張熱田の円通寺の住職となったそうです。

方政を祀ってある佐藤神社
また彼はいろんな本で美濃市の清泰寺に葬られたことになっていますが、実際にはそこにお墓はありません(清泰寺の方も彼のお父さんとおじいさんの墓はお寺の中にあるけど、本人のはどこにあるのか分からないと言われていました)。
あと彼が上有知八幡神社にトッパイ頭の兜を奉納していますがそれは今でも現存しています。それと写真に載せていますが、彼を祀った佐藤神社というものが上有知八幡神社の左横にポツンとあります。
参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・三百藩藩主人名事典・日本城郭全集、ほか
UPDATE 2003年6月8日
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