大谷吉治

(おおたによしはる)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣軍(真田幸村隊)の部隊長/ 官位(通称、号):大学助

大谷吉継の墓
関ヶ原にある父・大谷吉継の墓

【勇将の息子】敦賀城主・大谷吉継の息子、ということになっているが詳細は不明。大坂の陣時に50歳前後という説もあり、弟が養子に入ったと思われる。名前も吉勝・吉胤とはっきりしない。1597年に豊臣秀吉が大谷邸に来たときに吉継の代わりに贅を尽くして接待した。1598年に秀吉が死亡すると遺品として鏡切りの刀を受け取る。
 関ヶ原の合戦では父と共に西軍につき、北陸で前田勢を牽制した後、関ヶ原に移動し奮戦するが、小早川秀秋軍が西軍を裏切り大谷軍に攻撃してきたため壊滅。父・吉継は自害するが、吉治は逃亡を勧められ敦賀に落ち延びる。しかし追っ手が敦賀にも来たのか、その後は各地を流浪した。

敦賀城
父・吉継の居城だった福井県敦賀市結城町にある敦賀城

【復活】1614年、大坂の陣が起こると大坂城に入城。ここで十何年かぶりに義兄の真田幸村と会う(幸村の妻は吉継の娘。ただ吉治が吉継の弟なら甥ということになるが)。冬の陣では100人程度の兵を任されたらしいが、守った陣地は不明。恐らくは八丁目口あたりであろう。1615年5月の天王寺・岡山での最終決戦では真田幸村隊の前衛で戦った。松平忠直軍との乱戦で討死する。

管理人・・・あの大谷吉継の息子にしてはあまり記録がないです。まあ吉継も関ヶ原の戦いでの活躍がなければ、そこまで記録には残らなかったんでしょうけど。実力もよく分かりません。

参考文献戦国人名事典大谷刑部のすべて、ほか

UPDATE 2001年4月3日
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