今木源右衛門

(いまきげんうえもん)

生没年:?〜1658年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):源右衛門

大坂城山里曲輪跡
源右衛門の篭った大坂城山里曲輪跡

 実名不明。浅井長政の家臣で今木長門と名乗っていたが、浅井家が滅亡したため没落する。後に淀殿が豊臣秀吉の側室となったので、彼女を頼って豊臣家に仕え、名を改めて今木源右衛門と名乗った。
 大坂落城の際に豊臣秀頼・淀殿と一緒に山里曲輪に篭ったが、淀殿の依頼で常高院ら4人で徳川家康への使いとして向い、秀頼一行の助命を願い出る。しかしすでに山里曲輪は火がつき秀頼一行は自害して果ててしまっていた。
 そのため4人は散り散りになってしまい、源右衛門は前田利常を頼って加賀に行き、家臣となって1千石を与えられた。その時に浅井源右衛門一政と名を代えている。1658年に利常が亡くなると殉死して果てた。

管理人・・・殉死した理由は大坂の陣で死ねなかったことを後悔して、やっと死に時を得たと思い死んだのということです。しかし浅井家に仕えていて1658年まで生きていたっていうのはちょっと長生きしすぎじゃあないのかなあ。1573年の時に15歳だとしても91歳か、、、。どうなんでしょう。

参考文献大日本史料(第十二編15〜20)

UPDATE 2002年10月6日
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