内海重次

(うつみしげつぐ)

生没年:?〜1651年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):六郎左衛門

蒲生氏郷の像
滋賀県日野町にある主君・蒲生氏郷の像

 蒲生氏郷の家臣だったが、蒲生家が減封となったため、石田三成に招かれその家臣となった。関ヶ原の戦いで落ち延びる三成に従おうとしたが逃亡の妨げになると言われ別れて故郷の近江に逃げ帰る。
 その後藤堂高虎に招かれ500石で家臣となった。大坂両陣では赤母衣使番として活躍し300石の加増がある。その後も順調に出世し最終的には1500石の領主となった。1651年12月20日死亡。

管理人・・・重次は戸田流刀法の創始者・戸田清玄から剣術指南を受け、さらに工夫を加えて鍵槍の一流を編み出し、内海流と称したそうです。この内海流は津藩の御流儀として伝承され、江戸の終わりまでに2500人の門弟が名を連ねています。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年7月18日
Copyright (C) 2002 Tikugonokami.