鳥居成次

(とりいなりつぐ)

生没年:1570〜1631年/ 身分:甲斐谷村1万8千石の領主/ 官位(通称、号):土佐守

吉祥寺
成次が葬られた東京都文京区本駒込3−19−17にある吉祥寺

 徳川家康の家臣・鳥居元忠の三男。関ヶ原の戦いでは家康に従い首級を得た。1601年に甲斐谷村1万8千石を与えられる。その後、7千石を加増され、従五位下土佐守の官位を授けられた。大坂の陣に従軍し、天王寺・岡山での最終決戦では家臣が18人も戦死するほど苦戦したが、首級28を得る。
 1616年、徳川忠長の家老となった。1625年に忠長が駿河に移封された後も谷村を治め、1万石を加増され3万5千石の大名となる。1631年6月18日死亡。法名・林伯趙英。

管理人・・・成次は主君・忠長と領民の間に立ってその調節に非常に苦労していたそうです。
 関ヶ原の戦い後にこんな話があります。成次は家康から石田三成を預けられ
「父・元忠の仇にあたる人物だから自分の納得いくように取り扱え」
 と言われましたが、成次は丁寧に扱いました。
「確かに三成は仇だが、父は徳川家に命を捧げていたし、三成も殺したくて殺したわけではない。恨むのは筋が通らない。それに三成は天下の敵だから他の適切な人間に預けて欲しい」
 成次が家康にこう伝えたため、三成は本多正信に預けられています。三成もこの態度に感謝したそうです。

参考文献三百藩藩主人名事典

UPDATE 2013年4月28日
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