お菊

(おきく)

生没年:1595年〜1615年/ 身分:山口兵内の妻/ 官位(通称、号):なし

お菊の碑
大阪府阪南市鳥取1221の法福寺にあるお菊の碑

 豊臣秀次と小督局との間に1595年7月2日に生まれた子供だと言われている。両親が豊臣秀吉に罰せられて処刑されたため、和泉の波有手村の豪族・後藤興義の養女となった。1615年4月に紀伊山口村の山口兵内の妻となったが、わずか数日で夫が大坂に入城してしまう。
 お菊は夫の役に立とうと、豊臣軍と紀州一揆勢が浅野軍を挟撃する計画を助けるため、浅野軍の動きが書いてある密書を持ち紀伊から大坂へ向かった。だが、その途中で大坂落城を知り実家に身を隠した。しかし徳川軍に捕えられ浅野家によって牢獄に入れられてしまう。最後は自ら死を望み1615年6月6日に紀伊南穂村の河原で処刑された。

管理人・・・波有手村(現・阪南市)の法福寺にはお菊を偲んで木造が祭られています。お菊が密使を務めた際に男装するため髪を切ってそれを松の根元に埋め場所が今はお菊松と呼ばれて碑が建っています。豊臣秀次と小督局との間に生まれた説が正しければ淡輪重政の姪にあたります。

参考文献:法福寺でいただいた印刷物、ほか

UPDATE 2002年8月18日
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