須田盛久
(すだもりひさ)
生没年:1586〜1667年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):伯耆
栃木県芳賀郡益子町上大羽945−1の地蔵院にある旧主・宇都宮国綱の墓
父は宇都宮家の家臣で3万5千石を領した玉生高宗。1597年に主家が断絶した為、佐竹氏に仕えていた義兄・小貫頼久の推挙で家臣となった。大坂の陣に従軍し今福の戦いで功をあげ、徳川秀忠から時服を与えられる。
その後、須田盛秀の養子となり須田盛久と名乗り、1635年に家老となった。1662年に隠居する。1667年1月5日死亡した。横手市の天仙寺に葬られた。
管理人・・・盛久には変わった逸話が伝わっています。その二つを紹介しましょう。
三代藩主の義処の婚姻が決まって輿入れの日に、盛久が泣いているので人が訳を聞くと「他家から奥方を迎えたら生活が派手になり出費がかさむと思ったので泣いているのだ」と返答。実際に元禄期に入ると佐竹藩は十六万両(現在の金額で約1600億円)もの借金が出来、幕末までその返済に苦しんだそうです。
またある時、出羽の院内峠に『裏道を通ったら罰する』という立て札があったのを見て「あれでは御上が裏道があるのを教えているようなものだ」と取り外させたという話が伝わっています。
UPDATE 2003年12月2日
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