竹本庄助

(たけもとしょうすけ)

生没年:?〜1615年/ 身分:水野家の家臣/ 官位(通称、号):庄助

加賀井重望の墓
愛知県知立市宝町刈谷道56に建つ加賀井重望の墓

 竹本助平の息子。助平は、もとは織田信長の家臣だったが勘気を蒙り徳川家康を頼る。そして徳川家で活躍するが、やがて家康が間を取り持ち信長のもとに戻ることができた。その後、本能寺の変で討ち死にする。
 庄助は幼い頃から水野忠重に育てられ、長じると水野家の家臣となる。1600年7月、三河池鯉鮒で加賀井重望が口論の末に忠重を斬り堀尾吉晴に傷を負わせた際、庄助が重望を討ち取った。その功で家康から羽織を、忠重の息子・勝成から重望の脇差を授かっている。大坂の陣に出陣し天王寺・岡山での最終決戦で戦死した。

管理人・・・重望を討ち取ったのは一般には吉晴と言われています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2012年11月21日
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