松前忠広

(まつまえただひろ)

生没年:1580〜1617年/ 身分:下野国内で1千石の領主/ 官位(通称、号):隼人正

 松前慶広の次男。1599年11月に慶広と共に上洛して家康に謁見している。1604年から徳川秀忠に仕え、1610年に隼人正の官位と1千石の領土を与えられた。1615年の大坂夏の陣では慶広と共に軍勢を率いて出撃し、傷を負いながらも首を上げた。その戦功で同年11月に更に1千石が加増されている。1617年に秀忠の上洛に病身をおしてついて行き伊勢桑名で病没した。文武両道の名将だったと伝えられている。

管理人・・・忠広の子孫は幕臣として徳川家に仕え本家の松前藩とのパイプ役をしたそうです。しかも本家が途絶えた時に忠広の家から本家に入って廃絶の危機を救っています。まさに宗家のために尽くした家です。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年3月22日
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