松前由広

(まつまえよしひろ)

生没年:1594〜1614年/ 身分:蝦夷松前藩主・松前慶広の息子/ 官位(通称、号):数馬介

松前家墓所
和歌山県の高野山にある松前家墓所

 松前慶広の四男。兄・盛広に子供がいなかったので養子になっていたが、盛広に子供が生まれたため後継ぎの立場から外される。1612年に母の冥福を祈るために紀伊・高野山に詣でたついでに、豊臣秀頼に謁見して帰国した。
 それから粗暴な行動が目立つようになり慶広から絶縁されてしまう。1613年3月、由広の家臣に罪があり、慶広の命で奉行・小林良勝に成敗されてしまった。これに怒った由広は1614年12月26日に良勝を殺したが、逆に自分も慶広の家臣に襲撃され殺された。

管理人・・・慶広のどこが大坂の陣と関係あるかと言うと、自分の家臣が殺された時期に豊臣家に心を寄せ始めたからです。奉行を斬った後、大坂に走ろうと思ったんでしょうか?
 粗暴な行動に手始めたのは、後継ぎの立場から遠ざかったためだそうです。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年3月20日
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