狛孝澄

(こまたかすみ)

生没年:1581〜1659年/ 身分:越前松平家の家臣/ 官位(通称、号):伊勢守

孝澄の墓
福井市西木田4丁目3ー4の通安寺に建つ孝澄の墓

 大和に生まれる。父は大和四大将に数えられ6万石の大名だった狛実秀。母は小泉秀元の娘。狛氏はもともと山城の狛村にいたが、大和泊瀬郷岩坂に移り住んでそこを本拠地としている。実秀は豊臣秀長が大和を領した際、家臣になることを嫌がり領地を捨てて自済と号して大坂に隠遁した。諸将は実秀を誘ったが断っている。結城秀康の母・長勝院の招きにも高齢だからと断ったが、代わりに次女と孝澄を奉公に出している。
 そういった経緯で孝澄は7歳の松平忠昌に仕えることになった。大坂の陣に従軍し首級2つを獲っている。その後、主君の移封に従い最終的には8千石の領主となった。1659年2月9日死亡。法名・圓了院幻庵休夢大居士。

管理人・・・孝澄は大坂の陣の際に逸話が残っています。槍持ちの若者が遅れていたため一人で先に進んで刀で敵と戦っていたが、その最中に目釘(刀身が柄から抜けないように、柄と茎にあけた穴に通す釘)が折れてしまった。困っていたところにちょうど楊枝があって「これは春日明神の助けだ」と喜んで目釘にして城に向かった。そこで槍を持った騎馬武者に出会うが、呼びかけるとなぜか驚いて馬と槍を置いて逃げていったため、それらを奪って敵の首を獲ています。
 孝澄の妻も烈婦で、孝澄が出かけられた夜を狙って強盗が入ると「孝澄殿、起きてください」と叫び、さもいるような振りをして強盗を退散させ、しかもそのあとを薙刀で追いかけて逃げ遅れた一人を真っ二つにしています。その後、妻は薙刀を立て置くと疲れて熟睡してしまい、戻ってきた孝澄が起こすまで起きなかったそうです。
 孝澄が亡くなった後は息子が早死にしていたため孫が後を継ぎ、狛家は代々越前松平家の重臣として栄えています。

参考文献三百藩家臣人名事典・越前人物志・福井市史 資料編 4

UPDATE 2011年4月28日
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