松平忠昌

(まつだいらただまさ)

生没年:1597〜1645年/ 身分:上総姉崎1万石の大名/ 官位(通称、号):伊予守

【大大名】結城秀康の次男。母は中川一茂の娘・清涼院。大坂で生まれる。松平忠直は同腹の兄にあたる。1607年に徳川家康秀忠に対面し上総姉崎1万石を与えられる。大坂夏の陣では年齢を理由に出陣を断られると考え1615年の正月に元服した。天王寺・岡山での最終決戦では手勢だけで57の首級を得て、自分自身で2つの首を挙げた。陣後に常陸下妻3万石に移封される。1616年には信濃松代12万石に、そして1618年に越後高田25万石に移封と僅か4年で大大名となった。

松平忠昌の墓
福井市田ノ谷町21ー4の大安寺に建つ忠昌の墓

【越前松平家を継ぐ】1623年に兄の忠直が問題があるということで領主の座を追われ息子の仙千代が跡を継ぐこととなったが、結局は幕府の命令で忠昌と領地を換えさせられ忠昌が越前北之庄50万石の大名となった(仙千代は越前北之庄を継いでいないという説もある)。
 北之庄に移った忠昌は『北』が敗北に通じるということで地名を『福居』と改めた(さらに元禄時代に『福井』となった)。福井に入った忠直は法令を公布し領内の安定に努め、家臣団の規律を定めて統率を図った。彼の代には洪水・疫病・地震など越前国は何度も災厄に見舞われるがそれを乗り切った。1637年に2万5千石が加増される。1645年8月死亡。永平寺に葬られた。

管理人・・・忠昌は武勇に優れ大坂夏の陣では豊臣軍の剣術の達人と戦い槍で倒しています。また槍術師・剣術師・柔術師・弓術者・砲術師・軍学者などを多数召抱えています。
 彼の代は特に問題はなかったのですが、息子の代から家督などでいろいろ問題が起き、領地が少なくなって最後には半分の25万石にまでなっています。

参考文献三百藩藩主人名事典

UPDATE 2004年10月20日
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