山崎長徳
(やまざきながのり)
生没年:1552〜1620年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):閑斎
【主君の滅亡】父は朝倉家の家臣で朝倉家滅亡の時に戦死した山崎吉延。長徳は朝倉家滅亡後、明智光秀に仕え700石を与えられた。本能寺の変では二条御所を攻撃し、山崎の戦いにも従軍する。光秀が豊臣秀吉に討たれると、柴田勝家の家臣・佐久間安政に仕え旗奉行となった。賤ケ岳の戦いで中川清秀の攻撃や、その後の退却で殿(しんがり)を務めるなど活躍をしたが、柴田軍が敗北したため、前田利長の家臣となっている。

石川県加賀市大聖寺神明町1の全昌寺にある山口玄蕃宗永・修弘らの招魂碑
【前田家に落ち着く】その後、末森城の戦い・九州征伐・小田原征伐に従軍し活躍した。関ヶ原の戦いでも、大聖寺城攻めで長徳の家臣が山口宗永の子・修弘を討ち取るなどの功があり、1万5千石の領主となる。1611年に隠居し閑斎と号したが、大坂の陣には従軍している。1620年11月11日に死亡した。
管理人・・・長徳に関しては次の話があります。大坂の陣直前に、長徳が養っていた親戚の男が失敗をしたので勘当しました。ある夜、客を送って玄関まで行くと、恨みを持っていたその男がいきなり斬りかかってきます。しかし長徳は顔に傷を負い、しかも片手に手燭を持っていながらももう一方の手で斬り伏せます。後日、その傷が回復し登城したとき前田利常に、傷跡を見せて「しおらしい顔になりました」と挨拶しています。
参考文献:三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、ほか
UPDATE 2002年5月30日
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