脇田直賢

(わきだなおかた)

生没年:1586〜1660年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):九兵衛

高麗陣敵味方戦死者供養碑
高野山にある高麗陣敵味方戦死者供養碑

【朝鮮から】幼名・金如鉄。父は翰林学士(かんりんがくし、翰林院に属し主として詔勅の起草をつかさどった官)・金時省。7歳の時に朝鮮出兵で父が戦死し、宇喜多秀家軍に捕らえられ、岡山に連れて来られた。その後、秀家の妻の実家・前田家に送られそこで養育される。長じて前田利長の近習となり100石を与えられ、脇田重俊の娘を妻とし脇田姓を名乗った。

【讒言】利長の寵愛を受け出世を約束されていたが、これを妬んだ者の讒言のために屏居させられる。大坂冬の陣では越中高岡から駆け付け、前田利常から賞賛され、続いて夏の陣でも玉造口から城内に入り、その功で200石を加増された(後に更に500石を加増されている)。それから御算用場奉行、大小将頭、公事場奉行、町奉行などを務めた後、1659年に隠居し、幼名と同じ如鉄と号する。1660年7月死亡。国泰寺に葬られた。

管理人・・・朝鮮半島から連れて来られた方の一人です。身分にも関わらず出世し子孫も繁栄しています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年6月5日
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