牧野信成

(まきののぶしげ)

生没年:1578〜1650年/ 身分:武蔵足立郡石戸5千石の領主/ 官位(通称、号):豊前守

高崎城
信成がいた群馬県高崎市高松町にある高崎城

 徳川家の家臣で武蔵足立郡石戸領主の牧野康成の三男。1599年に父が死亡すると跡を継ぐ。関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って参加した。その後、徳川秀忠に仕え、1606年に大番頭に、1610年に小姓組の番頭となる。1614年には御書院番頭となった。
 大坂冬の陣では伏見城の守備を務め、夏の陣では大坂城に大砲を放って櫓を破壊している。1626年に御留守居となって2千石の加増を受けた。1632年に徳川忠長の流された高崎城に行き監督をする。1633年に4千石を加増され、合計1万石となり大名となった。
 1644年に下総関宿1万7千石に移封され1647年に病気のために隠居し1650年4月11日に死亡する。法名・性誉哲心知見院。埼玉県鴻巣市の勝願院に葬られた。

管理人・・・信成は1637年に家光の娘・千代姫が生まれた際に丑の年を忌み嫌う風習のため、江戸城の門の前で千代姫を買い取り仮に養ったんだそうです。仮に養って次の年にでも家光に戻したということでしょう。信成の父である牧野康成ですが、徳川家の家臣にもう一人同姓同名の人がいて危うく間違えそうになりました。

参考文献三百藩藩主人名事典

UPDATE 2004年6月23日
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