奥村永福

(おくむらながとみ)

生没年:1541〜1624年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):快心

荒子城跡
永福が明け渡しを拒んだ名古屋市中川区荒子4丁目にある荒子城跡

【譜代の家臣】奥村家は代々前田家に仕えた家で、永福も幼少より前田利春(利家の父)・利久(利家の兄)に仕えている。1569年に織田信長の命で、利久から前田利家へ家督が移り、彼が荒子城に入ろうとした際「利久様の許可がなければ城を明け渡すことは出来ない」と拒んだが、利久直筆の書状を見させられ城を明け渡した。

【前田家に尽くす】それから永福は前田家を辞し浪人となったが、1573年に織田軍が越前に攻めた時、前田隊に加わり出戻りしている。その後、長篠の戦いなどで活躍し、特に1584年の北陸の戦いでは、佐々成政が1万の大軍と共に永福の居城・末森城(能登・加賀を結ぶ重要拠点で、ここを落とされると前田家の領国が分断されてしまう)を囲んだとき、僅か1500人で守りきり、前田家を危機から救った。
 更に九州征伐・小田原征伐で活躍し、1595年に従五位伊予守と1万2千石を賜る。1599年に快心と号し隠居、大坂の両陣では金沢城代を務めた。1624年6月12日死亡。永福寺に葬られた。

管理人・・・前田家の重臣中の重臣です。奥さんも有名人で末森城の攻防戦の際、城兵を激励して城を夫と共に守っています。前田家の筆頭家臣・八家の内、三家が奥村家で、加賀藩内では一番重要視されていた家でした。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年4月11日
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