赤座孝治

(あかざたかはる)

生没年:?〜1660年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):右京

関ヶ原古戦場開戦地
岐阜県不破郡関ヶ原町にある関ヶ原古戦場開戦地

【裏切り者】越前今庄領主・赤座吉家(直保)の子。吉家は織田信長・豊臣秀吉に仕え、1599年からは堀尾吉晴の与力となる。関ヶ原の戦いでは当初西軍についたが、後半で小早川秀秋らと共に裏切った。しかし最後まではっきりしなかったということで、所領を没収されてしまう。1601年、前田利長に7千石で召抱えられたが、1606年、越中で濁流を渡河中、落馬し死亡する。

【苦労人】その子・孝治は1604年から前田家に仕え、父が亡くなるとその遺領を継いだ。大坂両陣に従軍し、夏の陣では二ノ丸での戦いで活躍している。
 1620年の大坂城修理で加賀藩の監督を務め、その頃、前田利常が幕府の目を気にして、赤座の姓を永原に変えさせている。1639年利常の隠退に合わせてに家老並となった。1660年に死亡。連歌・書道での評判が高かったと伝えられている。

管理人・・・関ヶ原の戦いの土壇場で裏切ったため、領土と名誉の両方を失ってしまった四将の一人・赤座吉家の息子さんです。周りの非難とか悪口とかに耐えながら必死でがんばってたんでしょう。そうでなければ家老までいけなかったはずです。

参考文献三百藩家臣人名事典・日本の戦史 関ヶ原の役・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年3月31日
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