木村秀望

(きむらひでもち)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣軍の一員/ 官位(通称、号):弥市右衛門

瀬田唐橋
秀望が守備した瀬田唐橋

 木村吉清の息子。吉清は明智光秀の家臣だったが、光秀の敗死後、豊臣秀吉の家臣となった。1590年に東北が制圧されると吉清と秀望の親子に葛西・大崎合わせて30万石を与えられたが、伊達政宗の策動で大規模な一揆が起こり領地を没収される。しかし1593年に豊後国内で1万4千石を与えられ、1598年に吉清が亡くなると秀望がその後を継いだ。
 関ヶ原の戦いでは西軍につき、交通の要所である近江の瀬田橋の守備についたが本戦で石田三成らが敗北したため改易され浪人となる。大坂の陣が起こると大坂に入城し、1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で戦死した。

管理人・・・関が原の戦いで瀬田を守備したっていうんですから、それなりの人だったんでしょう。また彼の父の吉清は木村重成の父親候補の一人なのでそれが本当だったら二人は年の離れた兄弟ということになります。まあ違うんでしょうけど、、、。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年1月24日
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