津田景康

(つだかげやす)

生没年:1564〜1638年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):豊前

人取橋古戦場
景康が活躍した福島県本宮市青田茂庭にある人取橋古戦場の跡

 伊達家の家臣。最初、湯目姓を称した。1585年の人取橋の戦い、1589年の摺上原の戦い、1591年の佐沼の戦いで功がある。朝鮮出兵にも従軍した。
 豊臣秀次に謀反の疑いがかかって処刑された際に、伊達政宗への疑いを晴らすために伏見の津田の原で豊臣秀吉に会い任務を果たす。その功で領地を2500石を与えられ、政宗から秀吉と会った場所を取って津田姓を名乗るよう命じられた。
 1600年の白石城攻防戦、大坂の陣でも功があり、3800石の領主となる。1636年に奉行職を息子・頼康に譲って評定奉行となった。1638年2月17日死亡。佐沼の西館に葬られた。

管理人・・・津田景康の孫・景康(祖父と同名)は伊達騒動の首謀者の原田甲斐と親戚だったため、領地を8千石から4千石に減らされています。

参考文献:伊達政宗―独眼竜の野望と咆哮・伊達政宗のすべて・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2003年8月6日
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