茂庭延元

(もにわのぶもと)

生没年:1550(1549)〜1640年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):石見

鬼庭良直の碑
福島県本宮市青田茂庭にある父・鬼庭良直の碑

【忠臣の子】別名・綱元。伊達家の重臣・鬼庭良直の息子。1585年の人取橋の戦いで父と共に出陣した(この時、父は戦死した)。1586年に奉行職を任ぜられ、翌年の1587年には5千石の領主となる。

【秀吉のお気に入り】1590年に伊達家が蒲生氏郷に訴えられた際、豊臣秀吉の元に行き弁明した。文禄の役(朝鮮出兵)で京都に寄った際、秀吉の命令で鬼庭の苗字から旧姓の茂庭に復する。
 朝鮮出兵の戦自体には参加せず肥前名護屋城の留守をした。ここで秀吉の妾の一人をもらう。その後、一度伊達家を出奔するが1597年に戻った。

原田甲斐の供養塔
宮城県柴田郡柴田町舘山の船岡城にある孫・原田甲斐の供養塔

【宇和島藩を支える】1600年の関ヶ原の戦いでは湯原で上杉景勝軍と戦う。大坂の陣にも参戦した。伊達秀宗が宇和島に移封されるとそれに従い初期の宇和島藩を補佐した。1640年5月24日死亡。享年91歳。

管理人・・・とても器量の大きな人で父・良直を討った窪田十郎が捕らえられると捕虜を斬るのは士道に恥じるとして釈放し、感動した十郎が延元の家臣になっています。
 また豊臣秀吉からもらった妾との間に生まれた娘さんは伊達騒動の主役の一人・原田甲斐のお母さんです。ちなみに名字は『おにわ』とも読むそうです。

参考文献三百藩家臣人名事典・伊達政宗―独眼竜の野望と咆哮・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2003年9月26日
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