佐竹忠次郎
生没年:1609〜1671年/ 身分:子供/ 官位(通称、号):なし

【生き残る】父は長宗我部元親の娘婿・佐竹親直。元親の孫にあたる。大坂の陣が起こると両親と共に大坂城に篭ったが、夏の陣で父が戦死し城も落ちたため母と一緒に逃亡した。しかし伊達軍に捕えられ仙台に送られる。そして忠次郎は伊達政宗の前に引き出されたが、この時政宗が彼の非凡な顔容を見て、家臣・柴田氏の後継者と定めた。
【伊達騒動】成長した忠次郎は柴田外記朝親と改め(後に諱を朝意に変えている)、1660年に奉行となる。彼が奉行となった頃は伊達藩は伊達兵部宗勝や原田甲斐宗輔ら伊達兵部派が幼君・綱村を擁して実権を握り、藩政を思いのままにしていた。1671年、伊達家の一門・伊達安芸宗重は幕府に伊達兵部派を訴えるため江戸に向かい、外記も証人としてそれに同行する。
【斬り合い】3月27日、大老・酒井忠清邸で裁判があり、判決を待っていた時、敗訴すると考えた原田甲斐は突然、伊達安芸を斬りつけ殺害した。これを知った外記は甲斐の肩と胸を斬ったが、自身も額を斬られた。その時、外記を助けに蜂屋六左衛門が来てなんとか甲斐を殺した。
これにより屋敷中が大騒ぎとなったが、外記一人は重傷を負いながらも冷静で「大老の家で死ぬわけにはいかない」と伊達家の者に言い、宇和島伊達藩の屋敷に自身を運ばせたが、その日の夜に死亡した。

管理人・・・柴田外記の名でよく知られており、伊達騒動の重要人物の一人です。彼は柴田家を継いだ後も長宗我部家のことは忘れず、一族の香宗我部重親が浪人した時、伊達家仕官の周旋(間に立ってとりもちをすること)をしています。政宗が一目見て非凡なる顔容だと思ったそうですが、いったいどんなのが非凡なる顔容なんでしょうか? 賢そうな顔をしてたってことなんでしょうね。
また彼には盛親の子という説もあり、柴田宗朝が妻を亡くして、再婚相手を京都留守居役に頼んだ際に紹介されたのが盛親の元妻で、連れ子(忠次郎のこと)と一緒に柴田家に来たそうです。そこで宗朝が子供を気に入り、家督を譲ったということです(『南路志48巻』)。以上、伊達家に尽くして亡くなった佐竹忠次郎でした。
参考文献:三百藩家臣人名事典・仙台人名大事典・長宗我部元親のすべて・戦国人名事典 コンパクト版・南路志
UPDATE 2002年6月10日 Copyright (C) 2002 Tikugonokami.