中島重房
(なかじましげふさ)
生没年:不詳/ 身分:長宗我部隊の部隊長/ 官位(通称、号):与市兵衛

重房が移り住んだ伯耆の中心・米子(よなご)
中島大和守親吉の息子。入道してからは未及と号した。1586年の戸次川の戦いで長宗我部軍が敗走中に豊後の土豪から攻撃を受けたとき、これを撃退し長宗我部元親から称賛されている。1588年からは検地奉行に就いている。書家としても有名だった。
関ヶ原の戦いに従軍する。戦後は一時期、浪人となったが、やがて藤堂高虎に仕えた。大坂の陣では旧主・盛親の元に馳せ参じ、八尾の戦いで活躍した。その後は不明。
管理人・・・彼にはもう一つ説があって大坂の陣が始まって盛親の元に行こうとしましたが、病気のために入城も出来ず、かと言って藤堂軍としても参加出来ずに療養していました。
病気が治ったのは陣後で、これを口惜しく思った重房は藤堂家を去り伯耆に移り住みました。それを聞いた山内忠義が召抱えましたが、程なく病死したそうです。
参考文献:長宗我部元親のすべて・戦国人名事典 コンパクト版、ほか
UPDATE 2001年9月3日 Copyright (C) 2001 Tikugonokami.