中内三安

(なかのうちみつやす)

生没年:?〜1624年/ 身分:長宗我部隊の部隊長/ 官位(通称、号):惣右衛門

長宗我部元親の像
高知県高知市長浜6600の若宮八幡宮にある主君・長宗我部元親の像

【忠臣】長宗我部元親の家臣。1562年に土佐の豪族・本山家の吉良城を攻めている。1600年の関ヶ原の戦いでは残兵500を率いて盛親を守り大坂に引き上げた。しかし兵士達は逃げ去り三安ら僅か7人になってしまっている。

【老将】長宗我部家の改易後は九州の本多家の世話になるなどしたが、大坂の陣が起こると大坂に入城し、盛親に従って戦った。1615年5月7日に盛親が大坂城から逃亡した際に最後まで従い、山城の八幡付近で主従共々捕まっている。
 盛親は処刑となったが惣右衛門は忠義の志(こころざし)が見事ということで命を助けられ、兄・重由がいた蜂須賀家から仕官を求められたが、それを断って土佐に帰り剃髪し惣入と号し盛親の菩提を弔った。1624年11月5日死亡。永禄年間に活躍しているということから大坂の陣当時は70〜75歳くらいの高齢だったと考えられる。

管理人・・・盛親と最後までいたということで割と名前が知られている長宗我部家臣の一人です。八幡で捕まった理由は次のようなことだと言われています。
 蜂須賀家の家臣・長坂三郎左衛門が、両将軍のご機嫌伺いに行く途中で茶屋に寄りました。ここで店の主人に「この辺りに豊臣軍の落ち武者はいないか」と聞いたところ「最近、夜な夜な来て竹流金で食べ物を買って帰っていく者がいまして、怪しいと思い跡をつけると葦原の中に入っていきました」と答えました。これを聞いた三郎左衛門は主人を案内させて不審者を探しに行くと、疲れきった盛親と惣右衛門を見つけて捕えたのだそうです。

 その中内家に伝わるものに、元親が盛親のために作らせた鞍があり、その鞍(通称・長宗我部鞍)を中内家以外の者が使用すると必ず落馬したという逸話が残っています。

参考文献長宗我部元親のすべて・藤堂高虎家臣辞典・大日本史料(第十二編15〜20)・長宗我部盛親 土佐武士の名誉と意地

UPDATE 2001年8月31日
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