浅野軍の裏切り

 天王寺・岡山での最終決戦浅野長晟は今岡より兵を出し松平忠直軍の備えの跡を通った。
「浅野殿が裏切られた」
 誰かがその時に叫んだため、徳川軍は騒動となった。そのため、藤堂高虎の馬廻りの先鋒に味方の大軍が雪崩かかってきたが、高虎は弓兵に矢尻(鏃、やじり、矢の先)を抜かせ、矢の幹だけで放たせたため、崩れた味方の大軍は散って、徳川軍の旗本は持ち場を固めることができた。
 その騒動に乗じて真田幸村徳川家康の本陣に攻め込んだため、幸村と戦った忠直軍は苦戦し崩れかけたが、それを見た他の徳川軍の兵が駆けつけて踏みとどまり大勢が討ち死にしている。(『元和先鋒録』)

真田幸村・大助親子の供養碑
長野市松代町松代1015-1の長国寺にある真田幸村・大助親子の供養碑

管理人・・・この文章には続きがあって『元和先鋒録』の作者が感想を記しています。
『真田幸村の合戦の様子は奇怪な説が多く、この日は最初は茶臼山に陣を構えて、それから平野口で伏兵を指揮し、また岡山に出て戦い、最後に天王寺で討ち死にした。その往来のための抜け道の跡が今にも残っていると、まことしやかに記録に残っている。しかし今考えると、冬の陣の城攻めの時に徳川軍の諸大名は、小屋を天王寺・国分寺の辺りに構え城に詰め寄り、地面を掘って土を上げて仕寄を作って城内より見えないようにした。その跡を数十年後に見て抜け道と勘違いし伝えたのではないのか』
 私の記憶だと、この時の戦いで幸村は平野や岡山口には行ってないはずなんですけど、、、。

UPDATE 2005年6月7日
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