占いの結果

 1611年、徳川家康豊臣秀頼が二条城で会談をする話が出た。淀殿は秀頼の身を案じ、軍配者の白井龍伯にそのことに関しての占いを頼んだ。彼は心身を清らかにして7日間、香を焚いて煙の中の気を3度見たが、すべて大凶と出たので、それを片桐且元に報告した。
 且元は龍伯を自宅に招いて命じた。
「私は占いのことはよく知らないが、秀頼様が二条城に行かないと戦が起こる可能性が高い。勘文(先例・吉凶・方角・日時などを調べて上申する文書)を書き換えて吉にしろ」
 しかし龍伯は言うことを聞かず「どうしてもと言われるなら私は預かり知らないことにする。もし吉と書き換えて何かあったらどうするのだ」と心配した。
 ところが且元は笑って「秀頼様が殺されれば私も一緒に死ぬ。誰に罪を問うのだ」と答えたため、龍伯は勘文を書き換え淀殿に提出した。これを見た淀殿は非常に喜んで秀頼を二条城に行かせた。その後、秀頼が無事に帰って来たので淀殿は龍伯を賞して白銀100枚を与えた。その他にも褒美をもらった龍伯は且元の自宅に行き感謝の意を表した。
「今回金銀をもらえたのは貴公のおかげだ」
 龍伯はそれからは占いをやめて世間を離れて静かに暮らした。(『武家碎玉話兌漏』)

二条城
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541にある二条城

管理人・・・その後の文章は『ある人が言う。軍配者はある月のその中の吉を取ればことごとく吉、凶を取ればことごとく凶となる。吉凶がないと言えば誤りを生んで、吉凶があると言えば迷ってしまう』というようなことが書いてありました(すんません、はっきりとした意味がわかりませんでした)。
 人間社会と占いは切り離すことができないですが、それにどっぷり浸かるのも問題ですね。つかず離れずくらいがちょうどいいかもしれません。

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