また重成の息子
会津藩主で徳川家光の弟・保科正之の家臣に木村忠次という人物がいた。忠次は木村重成と青柳との間の子供で、父親の戦死後に生まれ、京都紫野の大徳寺の近くに住んでいたが、1634年に上洛した保科正之が大徳寺に来た際に家臣となっている。
保科家の移封にも従い、最終的には200石を与えられ使番を務める。1656年4月16日死亡。会津藩士達が眠る福島県会津若松市の大窪山墓地に葬られた。(『会津人物事典・武人編』)

東大阪市若江南にある木村重成の像
管理人・・・大徳寺で正之に召抱えられた理由は下記の通りです。
忠次の息子の忠成(重成の孫)がしばしば大徳寺で遊んでいました。そこに正之が大徳寺にやってきたので、住職は忠成にお茶を出させます。しかし忠成は立ちながらお茶を出し態度も大きかったため、正之が不思議に思って理由を尋ねると忠成は
「私は豊臣家の家臣だ。関東の武士には膝を屈しない」
とはっきりと答えます。その態度に感心した正之は木村親子を召抱えたそうです。
UPDATE 2005年7月9日
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