口の堅さ

 米村権右衛門は大野治長の草履取りだったが大坂の陣前に取り立てられ武士となった。頭がよく勇気があったので、治長からの恩顧は並々ならないものがあった。大坂落城後、権右衛門は治長の遺言を受けて密かに治長の娘を養育して隠れ住んでいたが、捕らえられて江戸に連れて行かれた。
 権右衛門は大坂城内の金銀財宝の場所を問われたが「知らない」とだけ答えた。
「お前は治長のお気に入りの武士だ。知らないということがあるか。知らないと惚けるなら拷問をしてでも聞き出すぞ」
 奉行は権右衛門を脅した。

宝林寺
香川県高松市国分寺町国分2080にある宝林寺。治長が落ち延びた伝承がある

 権右衛門は地面に額をつけていたが、頭を上げて
「これは御奉行衆の言葉とも思えません。私の父は身分の低い者だったが、治長様のおかげで今は武士になれました。治長様は豊臣軍の総指揮を取り、軍の運命について一日中考えており金銀財宝のことなど心になかった。そのため部下もまた敵を討ち首を取ることのみ考え、他のことなど考えもしなかった。理屈から言って負け戦の時は大将でも命が危ないのに財宝など何の用があるのか。もし豊臣軍が勝ったなら両将軍の腰の物まで我らの物だ。財宝など欲しいとは思わない。もし言うことがあったら即座に言う。ただ言うことがなければ口が裂け、舌を抜かれても言わない。拷問してでも聞き出すとは何事だ!」
と憚る様子もなく言った。
 徳川家康がこれを聞き
「権右衛門は無類の剛の者だ。彼のような者を義直・頼宣に附けたい」
 と赦免した。権右衛門はのちに浅野長治に仕えたが、これは京都にいた治長の娘を育てるためだった。彼自身は衣服や食べ物に金をかけず、武具をきらびやかにするのみだけだったという。(『砕王話』)

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