夜討ちを予想する&いわささん奮戦記

 大坂冬の陣の最中、蜂須賀家に樋口内蔵助という武功の老士が
「主君に申し上げたいことがある」
 と願い出て蜂須賀至鎮を自分の小屋に招いた。
「城より今夜か明日に必ず夜討ちがあります。ご用心下さい」
「なぜそのようなことを言うのだ。詳しい理由を申せ」
「豊臣軍は徳川軍の各陣の前の橋を焼き落としているが、我々の陣の前だけは焼き落としていない。これは夜討ちをするために残したのです。その上、敵は十日も何もしてきません。その間に準備を整えており、近いうちに攻撃を仕掛けてくると思います」
「それはそうかもしれない。しかし池田忠雄の陣が隣にあり、こちらばかりに来るとは限らない」
「敵は隣の陣には手を出さず、こちらだけに攻撃してくるでしょう。理由は豊臣軍は至鎮様に恨みがあります。父上は豊臣秀吉様の取り立てなので秀頼様にも恩があります。それなのに味方しない上に豊臣家に返答すらしない。これには激怒していると思います」
「もっともだ。老中達と相談する」
 至鎮は納得したが、内蔵助に重ねてお願いをした。 「このことを老中に相談される時は至鎮様の考えということにしておいてください。老中達は皆若いので、私の言葉は信じないでしょうから」

蜂須賀至鎮の墓
徳島県徳島市下助任町2の興源寺にある至鎮の墓

 至鎮が去った後、内蔵助は婿の岩田政長(七左衛門)を呼んで聞いた。
「お前は高名を望んでいるのか」
 突然のことだったが七左衛門は毅然と答えた。
「望まないことがあるでしょうか」
「それならお前は私の言う通りにするのだ。人にもらすなよ。もらせば成功しない。それとお前は死ぬ覚悟は出来ているか」
「国を出た時から、この身を捨て死を忘れました。なぜそれを疑うのですか」
 再び毅然と答えた。そこで内蔵助は功を立てる秘策を七左衛門に伝授。
「よし、では教えよう。今夜か明日の夜、城から夜討ちの隊がこちらの陣に来る。お前は豊臣軍とすれ違いに橋の前に行き、敵の帰りを待って良き大将を討ち取るのだ。大功を上げられるのでがんばれよ」

 七左衛門は心得て夜を待っていると内蔵助の予想通り夜討ちがあり、蜂須賀の陣営は騒然とした。しかし七左衛門は教えられた通り、襲われている小屋の方に行かず、豊臣軍とすれ違いで橋に行き、たもとに寄りかかって待った。すると向こうの橋の欄干(てすりのこと)に静かにしている者がいた。七左衛門は『もしや同じことを考えた奴がいて、俺より先に来たのか』と考え、呼びかけた。
「名乗れ」
 そうして近づいてよくよく見てみると、その男は胸板に金の半月を出した鎧を着ていた。七左衛門は『味方にこのような武士はいない。さては敵だな』と思い、すぐに槍で胸板をひょうと突いた。しかし槍はツンと音を立てるだけで貫けず、その武士は何事もなかったかのように静かに鉤槍(穂に鉤を付けた槍。敵の槍をからみおとすのに用いる)を取り直した。七左衛門は一突きにしてやろうと、声をかけ力を入れて突いたが、武士は平然と槍先であしらい、七左衛門を大坂城の門まで追い詰めた。
「私はお前が倒せるような相手ではない。殺すこともできるが、志の士(志のある立派な武士ような意味)なのでやめておこう。名乗れ」
 七左衛門は名乗ろうと思ったが息が切れて「岩田、岩田」と苗字ばかり口にして名乗れなかった。そのうち、その武士は城へ引き上げ、小屋での戦いも終わって豊臣軍も引き上げ味方も追撃を開始したため、七左衛門も引き上げた。
 七左衛門と戦った武士は神子田理右衛門という数度の武功がある無類の勇士だった。大坂の陣が終わった後に七左衛門と槍を合わせたことを語ったが、その時まで『いわた』という名乗りがよく聞こえなかったので『いわさ』だと思っていたという。(『兵用拾話』)

大阪城桜門
大阪城桜門

管理人・・・・・・七左衛門さんには別の話もあるので、それもここで紹介しておきます。
『七左衛門は蜂須賀軍に夜討ちがあった時も寝入って気付かず、時間が経ってから起きて槍を持って出たが、敵はみんな引き上げてしまった後だった。『もし向かう途中で敵に遭えれば』と思って大坂城まで行ったが、そこでも遭えなかった。そこで城に近づいたが、すでに城戸も立ててあったため、城戸を叩き「先ほどの夜討ちで敵に遭わず無念に思いながらここまで来た。ここで敵と出遭ったなら、槍を合わせ討ち死にする覚悟だ」と叫んだが、愚か者だと豊臣軍は笑い、相手にしなかった。
 これを味方は知らなかったが、あとで豊臣軍の間で話題となり「昔の河原太郎(狂言。各流。太郎は妻が店の酒を飲ませないので、飲みに来た客のじゃまをし妻に乱暴をする。妻は仕方なく飲ませ、夫が十分酔ったところで、その頭に酒をあびせるという筋)を真似たような者なので、褒美をやろう」ということになって、『こういうことがあった。槍を合わせたことよりも勝っているように見える』と書いた矢文を蜂須賀軍の陣に放った。それが蜂須賀軍で取り上げられて、槍を合わせたということになった(『慶長見聞集』)』そうです。

UPDATE 2006年2月8日
Copyright (C) 2006 Tikugonokami.