大坂城の兵糧

 冬の陣の最中に大坂城から豊臣軍の兵士が逃げ出したが徳川軍に捕えられた。そこで徳川家康はその兵士に会い尋問をした。家康が城内の米の値段はいくらかと聞くと兵士は詳しく値段を答えた。また狭間(鉄砲などを撃つための小窓)1つに足軽が何人いるかと訪ねると、3人程だと再び答えた。
 その後、兵士は侍が堀3.6メートルに一人の割合でいる、騎馬武者がこのくらいいる、米蔵の数はこのくらいある、などを話した。家康はそれらから城内の兵糧を計算した。
 家康が城内に餅が売っているかと聞くと、兵士は「あります」と答えた。その餅の大きさを訪ねると、大きいものがあると答えた。これを聞いた家康は、城中にそんなに食料が多いのか、と疑問に思い軟らかい土と硬い土で大・中・小の餅の模型をこねて作らせ「どの餅か」と聞いた。すると兵士は大きくて軟らかい指差して「これです」と答えた。用無しとなった兵士は髪を剃られて城内に追い帰された。

後藤又兵衛の槍と鎧
松江城にある又兵衛の槍と鎧

 この話を聞いた後藤基次は舌を巻いて恐れた。
「家康が餅の大小まで追求していたのは初めて聞いた。そんなすべてのことに気を配るような人物が相手なら勝つのは難しい」
 徳川軍の身分の低い武将は「小蠡(小さなほら貝)をもって巨海を量る(小さい物をから全体を知る)家康公の智謀はさすがだ。家康公も最初は城内の兵糧を計るためだっただろうが、一兵士が米蔵や兵の数まで知っていると思うだろうか。これは豊臣軍に聞かせるための謀だ。さてその兵士が髪を剃られて城内に帰されたのが話しの肝心なところだ。豊臣秀頼や豊臣家の重臣達は若いため軍の駆け引きなどに詳しくない。この家康の行動によって策が細かいことを敵に知らせて恐れさせたということが基次の一言で分かった」と推察したという。(『校合雑記』)

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