成重の機転

 1614年12月4日の夕刻に松平忠直の家臣・本多成重は徳川家康に呼び出されて茶臼山に来た。同僚の本多三弥と小栗又市が出迎え
「大御所様の御機嫌が良くない。後にした方がいい」
 と止めたが、成重は家康の前に出た。家康はしばらく言葉が無かったが、やがて法を破って真田丸に攻撃を仕掛けたことを問いただしたため、成重は弁明した。
「主君は若気の至りで攻めてしまいました」
「若い者はかかってもかかっても鉄砲に撃たれ、引き際も見苦しい」
 すると成重は声を荒げた。
「それは徳川軍全体のことでしょう。私は大坂城の堀底の柵を破って堀に乗ったところに、急に引き取れとの命令がありましたので、18メートルほど撤退し、陣地を築いて終日奮戦しました。今も息子を陣地の後ろに配備しています。急いで検使を送って実否を確かめてください!」
「言うことすべてに感じ入った。勇功は父の作左衛門にも劣らない」
 家康は機嫌を直して成重を褒め、手渡しでキジの焼き鳥を与えた。こうして成重は面目を施して退出している。(『異本大坂記』)

本多家歴代の墓
福井県坂井市丸岡町巽町3ー3の本光院にある本多家歴代の墓

管理人・・・この時の成重の格好は『敵から受けた銃弾が残っている兜を被り、具足には血をつけていた』という迫力のあるものだったそうです。

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