恋煩い

 1614年9月21日、後藤基次の元に豊臣家から密書が届き、急ぎ大坂に来るように言われた。しかし、その頃の基次は窮乏しており衣服や甲冑の支度もできず困っていた。そこに再び使者が来て『大坂に来れば浪人達の総大将にする』という大野治長の密書を届けた。
 でもやはり支度が出来ず悶々とした日々を送っていると、事情を知らない軍学の門弟達は、元気づけてあげようと考え、食べ物などを送った。しかし基次の様子が変わらないため、別の方法を取ることにした。
「名将は昔から好色だという。男が好きか女が好きか聞いて人を取り持ってあげよう。そうすれば元気になるはずだ」

 しかし基次はいつも自分について厳しいため、みんなが聞くのを遠慮していると
「では私が聞いてみよう」
 一人の老士が名乗り出たので、他の4〜5人と共に基次の家に行くと、いつも通り悶々とし破れた布団をかぶって寝ていた。老士が基次を起こし雑談をしているうちに最近元気がないという話題になった。
「確かにこの間の病気は恋煩いだった」
 基次が悩みを打ち明けると、老士は「それなら相手の名前を言ってください。我々が取り持ちます」と話の本題に入った。

「相手の名前は於乱(おらん)と言う」
 基次が正直と答えると、若い門弟達は耐えかねて笑い出した。すると基次は布団をはねのけて怒り出した。
「何を笑っているのだ!おかしいことは少しもない!於乱とは今度の大坂と関東との争いのことで、乱に於を付けて呼ぶのが礼儀だからそう言ったまでだ」
 そして「この度、秀頼卿より私を数度招いていただいたが、浪人生活が長く支度ができない状況だ。そこで金百両を貸してくれ。大坂に行ったら必ず返済するから」と無心した。

 本当の理由を知った門弟達は誰もが迷惑に思ったが『放っておいたがましだ。我々が収入の少ないのを知りながら大金の借り入れを頼まれても金を集める手段がない。豊臣家に荷担する者だから捕らえて引き渡してもいいが、一度は師匠とした人物を訴えるのは人の道に外れることだ。しょうがない』と考え、仕方なく何とか20両を集めて基次に渡した。
 基次は「無理なことを頼んだので、貸すことが無理でも仕方が無かったのにこのようにしてもらって非常に嬉しい」と謝意を述べ、自宅を引き払って家来を集め、坂崎直盛に勘当された彼の息子の元無も誘って入城の準備に取りかかった。(『慶長摂戦記』)

伝・後藤又兵衛夫妻の墓
愛媛県伊予郡松前町大字筒井315の大智院にある伝・後藤又兵衛夫妻の墓

管理人・・・最初「確かにこの間の病気は恋煩いだった(原文は『如何にも此間の病気は戀病なり』)」の戀病が恋病(恋煩い)だと思わなくて鬱病だと勘違いしてました。又兵衛と恋が結びつかなかったので、、、。
 しかし於乱って、、、。それは勘違いされても仕方がないでしょうS。

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