本町橋のこと

 1614年12月16日、徳川家の家臣・小栗忠政と山本新五左衛門は陣場より帰ってきて徳川家康に提案した。
「豊臣軍の船場の城兵などが石川忠総の攻め口の橋を焼き落とそうとしましたが、石川軍が鉄砲で打ちすくめ守り通しました。幸いに蜂須賀至鎮が大軍を率いて近所に陣を構えているので、これと陣を代えて橋を守らせましょう」
 しかし何の返事もなかったため、その場にいた永井直勝も二人の後押しをした。
「急いで蜂須賀殿に守らせましょう。もし橋を焼き落とされたら城を攻めるのが難しくなります」

永井直勝の墓
茨城県古河市西町9-33の永井寺にある直勝の墓

 すると家康は怒り出し、傍らにあった長刀を取って直勝を追いかけ回した。松平右衛門大夫が家康の長刀に取り付き、なんとかなだめてその場を収めた。落ち着いた家康は怒った理由を語った。
「大坂城に架かる橋をこちらから焼こうと思えば出来るが、そうすれば敵は総攻めがないと思われるのでわざとそのままにしているのだ。敵から進んで焼き落とすのは願ってもないことだ。日本国中の兵が城一つを攻め落とすのに、なぜ一つの橋を頼りにしないといけないのだ。あの橋を焼かなければ敵が警戒して出てこないのでこちらは安心して寝られる。ただし一両日中に城内より夜討ちがあるだろう」
 その日に本町橋の夜襲戦があった。(『難波戦記』)

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