貧乏

 大坂冬の陣が起こった頃、蒲生忠郷の使者・安藤内匠助が上洛して幕府に、ある報告をした。
「蒲生主計助という、武勇に優れているが無欲で百姓などを養っているため、家が貧しい者がおりました。主計助が蒲生家の大坂出陣のことを聞き『家が貧乏で兵を動かすのが難しい。願わくば黄金を借りて名代として出陣し討ち死するつもりです』と願い出たが断りました。そのため主計助は自害しました」
 その内実は主君・忠郷と忠知の兄弟が共に幼少だったため、主計助が蒲生家を追放された岡半兵衛の一味だったという理由で、勝手に内匠助が判断したというものだった。これが徳川家康の耳に入ると、家康は激怒。
「罪のあった者の関係者だからといって、よく判断せずに何の救済措置をせず放っておくのは老臣の怠慢だ。主計助のことは誠に不憫であった。家中の侍が困窮するのは、その主君のせいだ。しかし忠郷は幼いので、それは老臣たちの罪である」
 これを聞いた内匠助は困り果てながら国に帰っている。(『難波戦記』)

会津若松城
福島県会津若松市追手町1−1にある蒲生家の居城・会津若松城

管理人・・・岡半兵衛は忠郷の母(家康の娘)に度々楯突いたため、蒲生家から追い出されたという人物です。

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