脇坂安元
(わきさかやすもと)
生没年:1584〜1653年/ 身分:伊予大洲5万3千石の大名の子/ 官位(通称、号):淡路守
安元が城主だった愛媛県大洲市大洲903にある伊予大洲城
脇坂安治の次男。山城で生まれる。1600年に淡路守となる。同年の関ヶ原の戦いでは父と共に軍を率いて徳川家康に合流しようとしたが近江で進めなくなり、使者を家康に送って状況を説明。軍そのものは小早川秀秋の下で西軍として参加する。しかし本戦の土壇場で東軍に寝返り石田三成軍を攻め、佐和山城攻めにも参加した。
1609年に父と共に伊予大洲に移る。大坂冬の陣では安治が豊臣家の旧恩を思って参加しないことを表明したため、安元が軍を率いて参加し藤堂高虎の下で戦った。1615年に兄が亡くなっていたため家督を継ぎ伊予大洲5万3千石の大名となる。同年の大坂夏の陣に参加し天王寺・岡山での最終決戦で首級2つを得た。その功で1617年、信濃飯田5万5千石に移封される。その後、駿府城の守備、朝鮮通信使の饗応などを務めた。1653年12月3日死亡。法名・藤亨安元八雲院。
管理人・・・安元の葬られた場所が『長野県飯田市追手町・妙心寺隣花院』となっていたのですが、これがどこなのか分かりませんでした、、、。飯田市追手町と京都の妙心寺隣花(華)院に葬られたのか、長野県飯田市追手町の隣花院妙心寺というお寺に葬られたのか、、、。おそらく前者でしょうね。
参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・戦国大名諸家譜
UPDATE 2005年10月22日
Copyright (C) 2005 Tikugonokami.