十河存英

(そごうながひで)

生没年:1575年頃〜1615年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):惣次大夫

十河存保の墓
香川県高松市十川東町にある十河存保の墓

 幼名・惣次郎。讃岐十河城の城主・十河存保の息子。十河家は元々讃岐の豪族であったが、三好家から養子が入り、それからは三好家の重臣として四国で活躍した。父・存保は長宗我部元親により四国から追い出されるが、1585年の四国征伐で再び三万石の大名に返り咲く。
 しかし1586年の戸次川の戦いで、仙石秀久の無謀な作戦のために存保が戦死。敗北の責任を取らされて十河家は改易となり、存英は浪人となってしまう。それから約30年後の1614年、再起を賭けて大坂に入城した。夏の陣で摂津尼崎に出撃するが戦死してしまう。享年40歳頃と推測されている。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2001年8月21日
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