久野宗成

(くのむねなり)

生没年:1582〜1625年/ 身分:遠江久野8500石の領主?/ 官位(通称、号):丹波守

田丸城
宗成が城代だった三重県度会郡玉城町にある田丸城

【罪人の子】下総佐倉1万3千石の大名・久野宗朝の息子。今川家の旧臣で遠江久野城主・久野宗能の孫。宗朝は1596年に京都で恨みで人を殺したために領地を召し上げられる。宗成は本多忠勝に預けられて関ヶ原の戦いで戦功があった。
 1609年に宗能が死亡したため、家督を相続する(この時に宗能の領地、遠江久野8500石も継いだと思われる)。同年、徳川頼宣に預けられた。

【田丸城代】大坂冬の陣では当初、駿府城の留守を命じられるが、まだ若いので従軍したいと願い出て許され、あとから大坂に駆けつける。夏の陣では頼宣に従う。1619年の紀伊移封で頼宣の家臣となり伊勢田丸城代の役職と1万石を与えられた。1625年11月29日、三河で死亡。

管理人・・・久野家についてですが、持っている資料をつき合わせると次のように推移したと思われます。
 1590年:徳川家の関東移封で宗能が下総佐倉1万3千石の大名となる→文禄年間:宗朝が下総佐倉1万3千石の領地と家督を相続→1596年:宗朝が人を討ち取ったため改易、宗能と宗成は蟄居などの処分→1603年:宗能が遠江久野8500石の領主に復帰、久野家再興→1609年:宗能が死亡、宗成が家督と領地を継ぐ。  細かいところは間違っている可能性がありますけど、大体こんなところでしょう。

参考文献:和歌山県史・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2005年4月5日
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