清水広吉

(しみずひろよし)

生没年:1586〜1664年/ 身分:大須賀家の家臣/ 官位(通称、号):内蔵之允

館林城
群馬県館林市城町にある館林城

 佐野尚定の子として遠江横須賀に生まれ、後に清水広之の養子となる。1594年に大須賀家の小姓となった。1603年に主君の命で近習の戸塚権平を討ち取り、その功で300石と近習頭の地位を与えられる。大坂夏の陣に従軍し奮戦した。
 陣後に主君・忠次が榊原家を継いで上野館林城主となると忠次に従い館林城に移る。1622年に榊原家が日光東照宮の奥院の修復を命じられると広吉は他の家臣とともに奉行となり、その功で加増され500石となった。1634年に鉄砲足軽20人を預けられる。その後、榊原家の陸奥白河、播磨姫路移封に従い1664年に姫路で死亡。書写山に葬られた。

管理人・・・広吉は館林にいた際に新田開発を指揮し、その場所は今でも『内蔵新田』という地名で群馬県邑楽郡板倉町に残っています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2012年10月17日
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