内藤政長

(ないとうまさなが)

生没年:1568〜1634年/ 身分:上総佐貫3万石の大名/ 官位(通称、号):左馬助

里見忠義と近臣8人の墓
鳥取県倉吉市東町422の大岳院にある里見忠義と近臣8人の墓

【父のおかげ】上総佐貫2万石の大名で徳川家譜代の家臣だった内藤家長の長男。母は松平忠長の娘。小牧長久手の戦いで初陣し功があった。朝鮮出兵では名護屋に在陣、関ヶ原の戦いでは下野宇都宮で上杉景勝に備える。
 関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の攻防で父の家長が副将として討ち死にしたので上総佐貫を継ぎ1万石を加増された。1613年に里見忠義が大久保忠隣に連座して改易されると本多忠朝とともに城を破却して安房国を統括する。

【出世】大坂冬の陣では安房の留守を、夏の陣では江戸城の留守をし、直接戦闘には参加しなかった。1615年に1万石、1619年に5千石を加増され合計4万5千石の大名となる。1620年に筑後柳川の田中家が改易されるとその受け取りを務めた。
 1622年に陸奥の内、岩城など四郡合わせて7万石に移封される。1634年10月17日死亡。法名・養誉堆安道山大居士。岩城菅ノ沢の善昌寺に葬られた(後に鎌倉市の光明寺に移葬された)。

管理人・・・鳥居忠政と同じく父の壮絶な戦死のおかげで出世していった政長ですが、それは本人も重々承知していたので父のために善昌寺を開山して供養したそうです。また政長は里見家の旧臣を7人ほど召抱えており、妹が里見家の家老・正木康盛に嫁ぐなど関係が深かったそうです。
 岩城の七浜海岸には道山林という彼が防風や街道の並木の保護のために作った林があります。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年2月12日
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