吉田好寛

(よしだよしひろ)

生没年:?〜1615年/ 身分:越前松平家の家臣/ 官位(通称、号):修理

【信頼】美濃に生まれる。最初、豊臣秀次に仕えたが彼が自害した後は結城秀康に仕えた。兵事に詳しく深謀遠慮であったので秀康から非常に信頼され越前足羽郡南江守に1万4千石を与えられた。1601年の北ノ庄城改築では三の丸と外曲輪の縄張りを行い総官となった。

吉田好寛の墓
福井市の足羽山にある吉田好寛の墓

【土地勘】秀康の跡を継いだ松平忠直にも引き続き仕え、大坂の陣に従軍し大坂の地理に詳しいことから先導を務めた。1615年5月6日の若江八尾の戦いで松平忠直軍は苦戦する藤堂高虎軍などを助けなかったため徳川家康に「父の名を汚す者だ」と罵倒された。そこで好寛は本多富正らと相談し軍令を破って先鋒の前田利常を無視して前に出て天王寺・岡山での最終決戦で大戦果を上げた。

【犠牲になる】しかし好寛は軍令違反の罪を逃れられないと考え、責任を取って当日に天満川に入水自殺した。法名・顕忠院前正匠作節叟道義居士。福井市の霊泉寺に葬られた。吉田家は好寛が亡くなると子孫が無く断絶した。

管理人・・・秀康に仕えてから短かったのに1万4千石も与えられて北ノ庄の縄張りまで任されたくらいですから結構名の知られた武将だったんでしょう。あと彼が死んだ時に殉死した人がお二人おられたそうです。
 あとあと忠実かどうか分かりませんが『千滿噺』に「吉田修理は本多富正の家来だったが、1610年ごろに知行所に水害があって農民にたくさんの餓死者が出た。修理は自分で農民の家を回って食べ物やお金を施した。農民達はその恩に報いろうと霊泉寺に墓を建てて盆などに寺参りをした」とあります。そんな逸話が残るくらい領民思いだったんですね。
 以上、自分の命と家を犠牲にしてまで主家を救った吉田修理さんでした。

参考文献三百藩家臣人名事典・福井市史 資料編4・越前人物志

UPDATE 2004年6月1日
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