松平家信

(まつだいらいえのぶ)

生没年:1565〜1638年/ 身分:三河形原5千石の領主/ 官位(通称、号):紀伊守

形原城跡の碑
家信が城主だった愛知県蒲郡市形原町にある形原城跡の碑

【形原松平】形原松平家の当主。松平家忠の長男。三河宝飯郡形原に生まれる。幼少から徳川家康に仕えた。1582年、本能寺の変後に徳川家が甲斐・信濃に攻め入った際に、酒井家次に属して諏訪高島城攻めで戦功があった。同年、家忠が亡くなったため遺領を継ぐ。その後、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、九戸政実討伐などに従軍した。1590年に徳川家の関東移封で先祖伝来の地、三河形原から上総五井5千石に移されている。関ヶ原の戦いでは江戸城西の丸を守備した。

野呂助左衛門の碑
家信が討ち取った野呂助左衛門の碑(野呂塚・愛知県犬山市羽黒町八幡東)

【旧領に戻る】1601年に旧領地の三河形原5千石に移封される。大坂冬の陣では当初は駿府の守備につく予定だったが、途中で命令が変更となり、大坂に出陣した。夏の陣では病のため、息子の康信を出陣させる。
 1618年に安房国内で5千石が加増され1万石の大名となった。1619年に摂津高槻2万石に移封となる。1635年に下総佐倉4万石に移封された。1638年1月14日死亡。法名・上誉露雪常立院。最初、千葉県佐倉市の光忠寺に葬られたが、のちに兵庫県多紀郡篠山町の光忠寺に改装される。

管理人・・・小牧長久手の戦いでは森家の勇将・野呂助左衛門を(家臣の助けを借りて)討ち取っています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・日本城郭全集

UPDATE 2005年11月21日
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