稲葉直富

(いなばなおとみ)

生没年:?〜1640年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):左近

稲葉氏一族と春日局の墓
神奈川県小田原市入生田303の招太寺にある稲葉氏一族と春日局の墓

【奉行】慶長年間に稲葉正則の推挙で前田利常に仕える。大坂の陣では旗奉行を務めた。その後、奉行職を歴任し、それらをこなし着実に出世していく。
 能登で奉行をしていた際、利常にその地が山海の珍物がよく獲れ上方への便がいいので、そこを領土としている家臣達を越中に移し直轄領にするよう進言し実行させている。

【疑惑】1635年頃、算用場奉行を務めた際、不正の疑いがかかり登城を求められたが、そういう覚えがないのに行けば処罰されると考え「御用があるなら自宅で伺います」と言い、武装し待ち構えた。これを知った利常は、内乱が大事になり改易の理由にされると思ったのか手出しをせず、そのまま数年が過ぎる。
 1639年、利常が隠居し光高に代替わりした際、反抗したことを取り上げ「父への孝行のために命を捨てろ」と言ってきたため、直富はこれに応じ1640年2月28日に切腹した。

管理人・・・ずっと反抗しつづけたのに何で急に切腹する気になったんでしょうか。私は、最初は討死するつもりだったけど相手が何もしてこないので死にぞこなったが、光高が命を捨てろと言ってきたので、いい機会(?)と思い切腹を決めたと推測しています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年4月2日
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