本多忠利
(ほんだただとし)
生没年:1600〜1645年/ 身分:三河岡崎城主の子/ 官位(通称、号):越前守・彦次郎

愛知県岡崎市康生町にある御城下船着場跡
本多康紀の長男。母は松平家清の娘。1613年に徳川秀忠の諱を賜り忠利と名乗った。大坂夏の陣で初陣を果たし、徳川家康から「祖父・康重に似たり」と賞賛される活躍をする。1623年6月に伊勢守に任ぜられ、同年の11月に父が亡くなると家督と三河岡崎5万石を相続した。
1634年に徳川家光が上洛する時に岡崎城で饗応し、その対応を賞され5千石を加増される。1645年に遠江横須賀に移封の予定だったが、同年2月10日に死亡したため、取りやめとなった。当初、愛知県岡崎市東能見町の源空寺に葬られたが、のちに静岡県掛川市山崎1305の撰要寺に改装される。
管理人・・・岡崎城主となった忠利は父の岡崎城修築を引き継いで、城の土居を石垣にして、川を引き込んで西搦手門を造るなどしたそうです。
「五万石でも 岡崎様は お城下まで 船が着く♪」と歌われることになったのは忠利のおかげもあるのでしょう。
参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜
UPDATE 2011年9月18日
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