秋元泰朝

(あきもとやすとも)

生没年:1580〜1642年/ 身分:徳川家の家臣/ 官位(通称、号):但馬守

秋元泰朝の墓
群馬県前橋市総社町の宝塔山古墳にある秋元泰朝の墓

 上杉氏の家臣・秋元長朝の嫡男。武蔵深谷に生まれる。小田原城に人質として送られていたが、落城後の1590年7月に城を出て父の元に戻った。1592年に井伊直政の斡旋で徳川家康の近習となる。
 関ヶ原の戦いに従軍し、1602年に武蔵足立群内で500石を与えられた。大坂冬の陣の後の大坂城の堀の埋め立てに功があったので上野群馬郡と武蔵の一部で5千石を与えられる。大坂の陣後に西国や高野山で豊臣軍の残党狩りを行った。
 1617年に日光造営の奉行となる。1622年に父が隠居したので父の領地・上野総社1万と合わせて1万5千石の大名となった。1633年に甲斐谷村1万8千石に移封される。1642年10月23日死亡。山梨県の都留市の泰安寺に葬られたが、のちに前橋市総社町の光厳寺に改葬された。

管理人・・・1633年に甲斐谷村1万8千石に移封されたのは、それまでの功を賞されたのもありますが、徳川忠長が高崎城に幽閉されたので、そこの城主・安藤重長が総社に移封されて、そこの城主の泰朝が甲斐谷村に移封されたという玉突き移封という面もあったそうです。

参考文献三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2004年6月2日
Copyright (C) 2004 Tikugonokami.