第35章:宗教と文化

 長宗我部氏は吸江庵の寺奉行を務めていたことから宗教への関心が高かった。元親は、土佐国分寺金堂や本山氏によって焼失した土佐神社を再建。台風で大破した豊楽寺の薬師堂の修復も行なっている。その他にも波介八幡宮などの造営も行ない、四国平定戦の最中には讃岐の金比羅宮の賢木門を再建している。純粋な信仰心だけでなく近隣の武将や民の心を掴むための政策だったと思われる。
 土佐一条氏との関係からか文化への関心も高かった。毎年二月の初めには一族や家臣が集まり連歌会を催していたと伝わっており、渡川の戦いの帰路で土佐の名所を巡って帰城すると、名所旧跡や歌をまとめた『袖鏡』という書物を作成している。土佐下向の折にこれを読んだ近衛前久は大いに感心したという。
 元親の時代の土佐には京から落ち延びて来た飛鳥井雅量蜷川親長など当時一流の文化人がいたことも、土佐で文化が花開いた大きな要因だったのだろう。

高知県長岡郡大豊町寺内314に建つ豊楽寺薬師堂
豊楽寺薬師堂
UPDATE 2012年8月8日
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