第1章:長宗我部氏の興り(〜1507年)

 長宗我部氏は秦の始皇帝の流れを汲む秦氏の末裔で、鎌倉時代初期に土佐長岡郡宗部郷に移った秦能俊が地名を取って姓を宗我部としている。その後、香美郡にも宗我部姓を名乗る豪族がおり区別するために郡名から長宗我部と名乗った、というのが一般的だが、諸説あり詳細は不明。
 やがて長宗我部氏は本拠地を長岡郡の岡豊に移し城を築く。南北朝時代には足利氏の家臣・細川氏に属して南朝方と戦う。一貫して細川氏に従った長宗我部氏は、細川氏と縁の深い吸江庵の寺奉行に任ぜられた。
 1471年頃、当時の当主・長宗我部文兼と長男・元門が不和となり、元門は当時京で起きていた応仁の乱に西軍の山名氏につくため出家してしまう。そのため長宗我部氏は東軍の大将だった細川氏の怒りを買って寺奉行を解任され領地も取り上げられている。しかし元門が改心し弟・雄親が家督を継いだため、寺奉行の役職と領地を返された。
 雄親の跡を継いだ元秀は細川氏の権威を背景に傲慢な振る舞いが多く、周辺豪族から反感を買っていた。1507年、土佐守護・細川政元が殺され孤立すると、周辺豪族の本山氏・山田氏・天竺氏などに攻撃され岡豊城は落城。元秀は自害している(攻撃に加わった豪族や元秀の最期については諸説あり)。

岡豊城の位置
岡豊城
UPDATE 2012年3月22日
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