一宮成祐(?〜1582年)
官位・通称:長門守
阿波一宮城主。名は成助とも。一宮氏は阿波守護・小笠原氏の一族で阿波一宮神社の大宮司職を世襲し、南北朝の争乱では南朝方として活躍した。北朝に降伏した後は細川氏・三好氏に仕えている。
成祐も三好家に仕え、三好之虎(義賢・実休)の妹を娶っている。1553年に起きた鑓場の義戦では久米義広らに攻められ討ち取られかけるが危うく難を逃れた。1562年、久米田の戦いに参加した際に大将の之虎が戦死して総崩れとなるものの家臣に守られ無事に撤退している。
1573年、之虎の跡を継いだ三好長治が篠原長房を討ち取ると不和となり、1578年に長治が細川真之を攻めた際、背後から長治を攻撃し自害に追い込んだ(荒田野の戦い)。その後、長治の遺臣との戦いで劣勢になったため長宗我部元親に誼を通じる。
元親の支援を受け長治の跡を継いだ十河存保と戦うが、元親が織田信長と断交したことを知り三好康長に気脈を通じたという。しかし1582年6月の本能寺の変で状勢が変わると、中富川の戦いでは元親の麾下で戦っている。だが元親の疑念は晴れず同年11月7日に誘殺された。
徳島県徳島市八万町に建つ成祐の墓

Copyright (C) 2015 Tikugonokami.