大西覚用(?〜1579年)

 阿波白地城主。大西頼武の子と伝わるが定かではない。覚養・角用・角養と記載されることがある。
 大西氏は藤原氏の一族・近藤京帝を祖とし南北朝時代は南朝として戦ったが、北朝の細川氏に降っている。やがて三好郡を中心に讃岐・伊予・土佐の山間部にも勢力を伸ばした。
 覚用は三好家に従っていたが、長宗我部元親や毛利氏とも誼を通じていた。1576年、元親は土佐の万福寺の住職だった覚用の兄弟・了俊を使者として味方になるよう覚用を説得する。覚用は了承し、弟(甥とも)の頼包を人質として差し出した。しかし三好氏に再び通じ元親を裏切ったため、1577年に元親は頼包の案内で阿波田尾城を落として白地城に迫った。覚用は讃岐麻城に逃げるが、頼包の仲介で元親に降伏している。
 その後、阿波重清城の守備を任されるが、十河存保に攻められ和議を結び撤退しようとしたところ約に反して追撃され、逃げ切れなくなった覚用は1579年7月10日に願成寺で自害している。

徳島県三好郡東みよし町昼間3004ー1に建つ願成寺
願成寺
UPDATE 2015年4月30日
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