第二章:尼子氏滅亡

【一騎打ち】備えとして置かれていた益田藤包の家臣に品川大膳というものがいた。彼は常々「噂の勇士・山中鹿之助を討ち取り武名をあげたいものだ」と口にしており、鹿之助を討ち取るのは俺だと名前も「たら木狼介勝盛」と改名し「鹿はたらの若芽を食べると角を落とすものだ。狼はよく鹿をとって食べる。俺は鹿之助を討ち取るために改名したのだ」と吹聴していた。
 ある日、狼介が富田川の向こうを見ていると三日月の前立てに鹿の角の脇立の兜をかぶった武士を見つけた。あれが鹿之助に違いないと思った勝盛は「鹿之助殿とお見受けいたした。私は益田越中守藤包が家来・たら木狼介勝盛と名乗る者。一騎打ちで互いの力量を比べようではないか」と提案した。もちろんここで臆する鹿之助ではなくそれに応じ、富田川の中州・川中島へと移動した。

安来市広瀬町にある川中島一騎打ちの碑
安来市広瀬町にある川中島一騎打ちの碑

【狼を討ち取る】移動し終えた狼介はまず弓矢で鹿之助を狙うが、鹿之助の従者が「飛び道具とは卑怯なり」と弓を放ち狼介の弦を切ってしまった。すると二人とも刀を抜き斬り合っていたがなかなか勝負がつかない。するとそのうち組み討ちとなり揉みあっていたが力の勝る狼介が鹿之助を押さえ込み首をかこうとした。
 しかしその時鹿之助の腰刀が狼介の脇腹を二度突き上げた。痛みでのけぞる狼介を押さえ首を取ると「石見より出た狼を出雲の鹿が討ち取ったり!」と叫んだ。これにより尼子軍の士気は大いに上がった。
※たらの字が表示できませんでしたので、ひらがなで表記しました。

安来市広瀬町にある品川大膳の墓
安来市広瀬町にある品川大膳の墓

【月山富田城落城】しかしそれも一時のことにすぎなかった。永禄9年(1566年)になると完全に毛利軍に包囲されてしまった富田城は食料が入らず食べ物が底をつき始めた。
 しかも尼子義久が毛利元就の謀略にかかり重臣・宇山久兼を殺してしまうなど城内の士気も低下し逃げ出すものが続出。遂に300人あまりが残っているという有様になってしまった。
 そこで義久は元就からの降伏の申し出を飲み開城することにした。元就の処置は寛大で、尼子義久ら三兄弟は命を助けられ安芸(広島県西部)に送られ、兵士達も解放された。一時は中国地方最大の大名として栄え「十一州の太守」とまで言われた尼子氏だったが最後は哀れな結末を迎えた。

月山富田城の対岸に建つ尼子経久の銅像
月山富田城の対岸に建つ尼子経久の銅像

【鹿之助・出雲を去る】鹿之助も命を助けられ狼介から受けた傷を癒すため杵築で治療し、翌永禄10年(1567年)に湯治のため有馬温泉へ向かった。それからの鹿之助の足取りは分からない。一説によると京都に上った彼は尼子再興のために様々な国の軍法などを学ぼうと考え、武田・上杉・北条・朝倉などの各地の戦国大名などを3年間かけて調べて周り再び京都に戻ったといわれている。

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